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FFVS J 22は第二次世界大戦中に造られたスウェーデンの戦闘機である。1942年9月21日に初飛行した。 第二次世界大戦に際してスウェーデンは中立を保ったが、隣国のフィンランド、ノルウェーが戦争に巻き込まれるのを見て、空軍力の整備に努力しなければならなかった。アメリカやイタリアからの戦闘機の輸入も必ずしも順調に行えなかったため、自国での軍用機開発がこころみられた。一つはFFVS (Flygförvaltningens Flygverkstad i Stockholm) 航空庁国立工場)のJ 22であり、もう一つがSAAB社のJ 21である。 FFVS J 22は鋼管骨組みに合板張りの片持ち低翼単葉の機体にプラット&ホイットニー ツイン・ワスプを無断でコピーしたエンジンを搭載した。(戦後ライセンス料を支払ったという。)バルティ社に技術習得にいっていた技術者ルンドベリが設計をおこなった。1000馬力級のエンジンで575km/hの最高速度というかなりの高性能機で、報道では「エンジン馬力に比率して世界最高速の航空機」と呼ばれた。戦後のスウェーデンの航空産業の発展の元になった機体である。 == 開発 == 第二次世界大戦勃発時にスウェーデン空軍は多数の時代遅れとなったグロスター グラディエーター (J 8)複葉戦闘機を装備していた。戦力増大のためにスウェーデンはアメリカ合衆国に120機のセバスキー P-35 (J 9) と144機のバルティ P-66 ヴァンガード (J 10) を発注した。しかし、1940年6月18日にドイツがノルウェーを占領すると米国はイギリス以外の国への武器輸出禁止を宣言し、その結果スウェーデン空軍は突然近代的な戦闘機の不足に直面することになった。数か国の代替品が考慮されたが、フィンランドのVL ミルスキとソビエト連邦のポリカルポフ I-16は不満足である一方、大日本帝国の零式艦上戦闘機は入手可能であったが日本からの輸送は非現実的であった。結局はイタリアのフィアット CR.42 ファルコ (J 11) 複葉機とレジアーネ Re.2000 ファルコ (J 20) が一定数購入されたが、これは明らかにその場しのぎでしかなかった。 空軍が深刻な航空機不足に直面している一方で、SAAB社は単発のサーブ 17と双発のサーブ 18爆撃機の生産のために総力を挙げて操業中であったため、ボー・ルンドベリ(Bo Lundberg)指揮の下で新たな組織と工場「''Kungliga Flygförvaltningens Flygverkstad i Stockholm''」(FFVS)が設立された。J 22と命名されたこの航空機は、鋼製エアフレームに合板製外板を張った単葉機であり、主翼と胴体の構成は保守的なものであった。後方に引き揚げられて完全に胴体内に収納されるトレッドの狭い主脚は、[[1935年]]のパラソル型主翼を持つ単葉戦闘機のフォッケウルフ Fw 159に幾らか似ていた。エンジンは当時はライセンス生産権を得ずに製造したスウェーデン製のプラット・アンド・ホイットニー R-1830を使用していたが、ライセンス代は後に(象徴的価格の$1で)支払われた。 J 22は1942年9月20日に工場の所在するブロンマ飛行場で初飛行し、1943年10月にはヨーテボリの第9航空団(F9)に就役した。最後の198機目は1946年4月に納入された。J 22の部品製作には500社以上がかかわっていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「FFVS J22」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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